fお慈悲の用意

この前テレビを見ていましたら、中国のある少数民族の習慣で六十歳になったら自分の棺桶を作っておくというのがありました。
一昔前までは棺桶を収めて運ぶ屋根付きの、あの御神輿のような形をした箱物を家順番で管理をしていた。子供の頃はそれを見るのが怖かったという法事での思い出話。私も経験があります。
 私の祖母は、「家に薪の用意が無いようでは恥ずかしいことだよ。いつどんなことがあるかわからないからのー。」と、積み上げられた割り木を見ながら話してくれたものです。
これらのそこにあるものは「人は何時かは、しかも何時死ぬかわからないのである」、という事実を実生活の中で身近に見つめていたことがわかります。
 そこには、死を忌み嫌って遠ざけよう、ごまかそうという姿勢は微塵にもみられません。どのようにしても逃れられないものであることは、自然に身近な生活と一体になっていました。現代はそれを遠くにおしやって、見ぬふりをするか、見せないような偽装の中に埋没させられているような気がしてなりません。そのことがかえって悲劇を大きくしているようでなりません。用意ができないからです。
私たちは未来を試しに生きて見ると言うことは出来ません。だから毎日毎日新しい未経験の道を歩んで行くしかない、これが生きると言うことなのでしょう。そして、年を重ねるごとに、こんなはずではなかったと嘆くことがだんだんと増えてきます。人間や人生の悲劇というのは、自分の願望と現実があまりにも食い違ってくることにより、その現実を受け入れられない煩悶にあると思います。 一方に偏る価値観はもう一方の現実を受け入れることが出来ないのです。結局、対立のまま終わってしまいます。これは悲劇です。
 生と死もそうです。
「みほとけに召さるるよき日近づきて誰にも言わずひとり微笑む」この短歌はある老翁の晩年の喜びの歌です。
この私は老いていくもの、病んでいくもの、死していくものという静かな諦観。そのような限りのある命を抱えているまんまの自分を決して見捨てることなく、浄土に迎えとってこの上ない仏にするという如等様のお慈悲によって対立が無くなりました。それどころか、「 死ぬ」という悲劇が「浄土に生まれる」という喜びに転ぜられているのです。 住職稿
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善教寺 門徒会館HE

 
 
 この門徒会館は平成28年4月 当主御門徒の御懸念により
  善教寺に布施されたものです。

 

 駐車場から、徒歩約1分。駐車場から門徒会館まで目立つ
 段差もなく、足腰に負担がかからないことがあげられます。
 本堂までですと、長い石階段を登る必要があります。

 

 会館内では、ご法事(お斉)など仏事をつとめることが
 できます。ご法座の折、夜席はここ門徒会館でつとまって
 おります。

 

 基本的には椅子や机の配置は人数に合わせておまかせして
 おります。お斉をここで机を並べかえて、ということも
 しばしばございます。

 

 

 

 台所も使えます。

 

 歴史ある立派な邸宅です。

 

 会議室(控え室 お斉会場にも)
 

 会館入り口の花は毎週ご門徒の方でお世話くださいます。
 

 外に出ると、近くに「東橋」という吊り橋があります。
 

 

 門徒会館でのご法事など、ご希望が御座いましたら
 お知らせくださいませ。

 

 
 

 

ナビゲーション
















































































































































綺麗な花